・・・誕生日が近いというので、思い出を思いつくままにつづっていたら話があっちこっちに飛び、美樹との思い出の一番濃いところを書きつらねてしまったので疲れた・・・そういえば美樹とのセックスでは、美樹はよく「あん、つ、つかれるー」と言っていた。「疲れる」ではなくて「突かれる」、俺がペニスを美樹のワギナの中で欲望のおもむくままに激しく前後させ、時には激しく奥まで突き上げ、前後運動するものだから、子宮の入口に当たって痛いと言っていた・・・
さて、1984年の冬になると、美樹との中出しセックスは当たり前のようになっていった。といっても毎回中出しでは若い二人のこと、きっと簡単に妊娠してしまう。俺はいつもおっかなびっくり、生理周期を美樹に聞きながら、可能なときは中出しセックスの快感におぼれ、美樹はもう当然のように中出しをせがんでいた。
いつだか、美樹からピルを飲もうと思っているという相談を受けた。今思えば、セックスするのが特別なイベントではなくいつものことになってきて、安心して中出しセックスをしたかったのだろう。当時の美樹は19歳。年令相応には見えない儚げな外見で、線も細く、・でも着痩せするタイプで脱がせると、瘦せているのに豊満な胸が主張する。そして裸にしてセックスすると、後背位をせがみ、数回突きたてるとアクメに達する。
そんな子には全然見えないところが、服を着ている美樹を眺めていてもそそられるのであった。
その一方で、美樹に飽きがきていたことも確か。 今まではその全存在を認めていて、不平不満などなかったのだけど、時々、「この子のこんなところが良くない、直さなきゃ」なんて考えることがあった もちろん、相変わらずかわいいのだけど、セックスも俺の気のおもむくままにさせてくれるけど、いま一つかなぁ、なんて不遜にも思うようになった。 多分美樹は、俺の慰み物にされていることに気がついていただろう。それまでにも時々話していたような「おもちゃ」にされていたとも思っていたかもしれない。俺は、口では「そんなことないよ」と言っていたけど、行動は、美樹をおもちゃ扱い、なぐさみもの扱い、性のはけ口扱いだったのが明らかだったのだろう。
また、一時は、特に受験時は、美樹の方が頭が良く、成績もよく、遠慮していたのだが、こちらは大学生、向こうは高校中退、要は中卒の大検合格したものの宅浪という名で制御というかコントロールがつかずに貴重な一浪目を自堕落な半同棲生活で過ごし、俺のせいだけかと思えば美樹自身も住まいの東松原の近くにあったKENBOというスナックに出入りというか常連のように入り浸り、結局とてもとても受験生とは呼べない生活だった。 一浪の結果、白百合女子大には合格したものの慶応大学には落ち、慶應の通信教育課程に1984年4月に入り、1年目の冬を迎えようとしていた。
なんとなく、別に美樹に落ち度はないけど、そろそろ飽きてきたのかもしれない。それは美樹も同じだったのかもしれない。交際も3年目の半ば、お互いにマンネリだったのだろうか。 また、美樹に飽きた、というのは、美樹とのセックスに飽きた、ということである。 思わぬ形でつき合いだして2年と半年、千駄ヶ谷の木賃アパートに越してから3カ月ほど(いま思えばとても短い)、色々とギクシャクし始めていた。
お互い若くて何者でもなく、そしてこのままコドモのままで生きていけるわけはなく、そして美樹のアパートに訪ねては、手土産を持っていくわけではなく、二人でご飯を食べにいくことも稀で、部屋に着いたらちょっと話してなし崩しにセックス、終わったらそのままさよなら、では、美樹もこの先の人生を考える。
この頃、美樹が口にしていたのは、「私、二十歳になったら生活保護を受けるの」と「色々考えてるの」だった。 生活保護はともかく、色々と考えているのは俺も同じだった。しかし、多分考えていることの内容が違ったのだろう。
多分、1985年の年が明けたころ、美樹は時々「弁護士のところに相談に行っていた」と口にするようになる。弁護士?美樹は弁護士になろうかと言っていたことはあったけど、相談するようなことはないんだけど。でも、この頃、すでに美樹は、あの母親と二人で弁護士事務所に行って俺とのつきあいのことをなんだか相談していたみたいだ。
この、1984年の晩秋から85年の年明け、1,2月、そして5月の初のドライブデートにして最後のデートまで、記憶と事実関係の時間が前後していてあまりはっきりしない。 生理が2週間以上遅れて妊娠したかも、という話しと、「病院に行くからついてきて」と言われていった先が代々木病院の精神科だったことと、別れたいから弁護士事務所に行って、事務所からは両親宛に速達が来たことと、つき合うの別れるの、といった話しと、色々ごっちゃになっている。
今となってはもう、忘れようにも思い出せない(天才バカボンか)なのだが・・・
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