自分だけの思いつき、など。

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...... 2025年02月07日 の日記 ......
■ 2025/2/7 松尾美樹 生きていれば2/11で還暦 続き   [ NO. 2025020701-1 ]
カメラは、弟のコンパクトカメラを借りた。海外旅行にいくときに買った自前の一眼レフもあったのだが、大きい重いなどなどで俺の手には余った。
フィルムは、ヨドバシカメラで店がパトローネ(という言葉ももう私語だ)に詰めたモノクロフィルムを買った。

ちょっと説明が必要だろう。ここでまた脱線する。
フィルムカメラ用のフィルムは、当時はフジ、さくら、コダック、アグファなどのメーカーが製造していた。そしてヨドバシカメラなどの巨大カメラ廉売店では、スーパーの冷蔵ケースのような什器で低温に保ちながら売っていた。

その名が示す通り、当時は高かったカメラを安く売るところから始めた商売なので、重要な関連商品であるフィルムも大量に扱っていたのだ。

その中で、メーカーが作って売っているフィルムのなかに、業務用とでも言えばいいのか、通常は36枚撮り、24枚撮り、12枚撮り、と決まったコマ数で売っているもののほかに、100メートル、とか○○フィート、といった単位で「長巻き」のフィルムも売っていた。当然業務用というかプロ用で、専用のマガジン(雑誌でなくて、機関銃の弾を入れる弾倉のような形状をしたフィルム入れ)に装填するもののはず。
ヨドバシカメラでは、それを36枚撮りなどの長さに切って、使い古しのパトローネに入れて、メーカー品よりも安く売っていた。

美樹のヌードを撮るためのフィルムを買いにいったとき、この店が作ったフィルムを買った。少し安いから、親からの小遣いでやり繰りしていた学生にはありがたかった。また、初めて女の子の裸を自分で撮るという行為に興奮しつつもビビっていて、モノクロフィルムを買ったのだった。

数日後、美樹とのデートでは歌舞伎町のラブホテルに直行した。いま思えばなんとも可哀想なことをしたものだ。

入って、まずはベッドの上に座らせて、着衣の美樹を撮る。青いギンガムチェックのブラウスに、白いニットのベスト。ひざ上くらいの短いスカート。フリルのついた靴下。俺はこの靴下があまり好きではなかったのだが、このかわいらしさがわからなかったのだろう。
微笑をたたえて上目づかいでカメラを見ている。ただし、ベッドの上には避妊具の小箱が置いてある。

いま、当時のフィルムを見返すと、次のショットは同じベッドの上でパンツ一枚だけになって横たわる美樹の裸である。目はカメラを見ていて、両手はカラダの横に指先まで延ばしている。避妊具の箱は同じところにある。

ベッドの上で、思いつく限りのポーズをとらせた。上半身を起こして髪に手を添えている。中途半端にあぐらをかかせて、やや右斜め後ろに振り返り、そこを撮っている。バストの大きさが強調されるポーズだ。いや、実際に大きかったのだが、その前に不意打ちで撮ったヌードではその大きさが表現できなかった。

ベッドの上から降りて、部屋の壁の前でポーズをとらせる。でもたいして思いつかない。せいぜい首を傾けさせて「笑って」というくらい。
そのうち、パンツを脱がせる。全裸になる。立ったままだけど、陰毛を隠させる。当時は、雑誌で陰毛が写っていると回収されたり警察に呼ばれる時代で、写っていたらプリントしないで返される時代だったのだ。

そんなこんなで36枚撮りきった。セックスよりも会話よりも裸にして写真を撮ることを優先したのだった。

終わってすぐに美樹は「・・・恥ずかしかった・・・!」という。そりゃそうだ。水着さえ撮られたことがなかっただろうに、いきなりバストトップどころか一糸まとわぬ全裸を18歳になったばかりで何枚も撮られたのだ。

後日、現像してプリントしたものを見た。・・・・・なんだこりゃ。写真がムラだらけ。所々傷もある。多分、店がフィルムを切ってパトローネに詰めるときに傷つけたりしたのだろう。安物を買って失敗した。
また、白黒なので美樹の肌の色が出ない。
俺がビビったからか、根本的なテクニックなのだが、被写体から少し遠くて、一目で見て「下手な写真」だということがわかる。

後に写真愛好者の団体の事務局の人に「一歩前に出るの、それでぐっと良くなる」と教えられたが、まさにそのとおりの写真だ。

この写真を美樹に見せた。
美樹は一目写真を見るなり、瞬時に俺の手から奪い取り、隠そうとする。「はずかしい!」ごもっとも。


これが、つき合って2年目頃、1983年の5月ころの話しだ。
そして、美樹から「ねぇ写真撮って、ヌード撮って」と言ってきたのは、1984年の12月くらいだったか。あぁ、やっと話しが戻った。

美樹からそういわれても、またビビっている。俺は「本当に撮っていいのか?」と思った。以前撮らせてもらったときには恥ずかしがっていたし、「ネガを頂戴」などと言われていた。

また、自前のカメラがないので、借りるのも手間だった。ただの安物のコンパクトカメラなのに。
でも、どうにかカメラを持って美樹の千駄ヶ谷のアパートに行った。

この時に撮った写真は、結局ヌードを撮ることはなかった。
まずは着衣の美樹。トラッドなチェックの長めのスカートに白いブラウス。ちゃんとお化粧をしてにこやかに写っている。
ベッドの上に座らせて、脚をくずして座る。女らしい。ブラウスのボタンを3つ外させる。でも谷間は見えない。
そんな写真を何枚か撮る。ブラウスを脱がすと、下にはヘインズのTシャツを着ている。俺と同じだ。

ブラジャーを外すように言う。すでにスカートは脱いでいる。黒いストッキングも脱いでいる。
下はパンツだけ、上はノーブラで白いTシャツ一枚の美樹。乳首が透けていてもよさそうなのだが、ダブダブだからか、残念ながら見えない。なぜか、トレーナーを肩からかけて1枚撮る。
そこでフィルムが終わった。

この最後の写真を見返すと、なんとも不満そうな顔をしている。自分から言い出したのだから、きっと乳房を露出したような写真を撮って欲しかったのだろう。いま思えば、もっと枚数があったらTシャツをめくりあげて両胸を露わにしたりとか、パンツも脱いだ全裸になってベッドの上に大の字になり、陰毛の上には薄いティッシュペーパーを置いただけの写真とか、そんなものを撮らせてくれたのかも、と思ったりするが、それは最近思いついたこと。

この時の写真を見返すと、美樹の顔がそれまでとは違っている。目がきつい。目尻がつり上がっている。その前に裸を、いや裸以外でも撮った写真とは明らかに顔が違う。
この時には、代々木病院の精神科に通っていたはず。
毎日のように美樹の顔を見ていても気がつかないが、たまにこうやって写真に撮ると変化していることに驚く。

ヌードを撮ってくれといわれて着衣の美樹を撮ったころ、ストーブをつけていたことを覚えている。冬、まだ1984年のことだったと思う。

この頃は、美樹の精神科通院がわかったこと、その前に生理が遅れていて妊娠を心配していたこと、つきあいをどうするのか色々考えていると言っていたこと、母親が出入りしているらしかったこと、などなどあったのではなかろうか。

この頃のことは、記憶が前後していたり、曖昧だったりのことが多い。美樹と別れるにあたっての一連のさまざまなことは、当時の自分では受け止めきれなかったのだろうか。

【このあと、弁護士からの手紙、アルバイト開始、会えない日々、トリアノンに呼び出されたこと、美樹の引っ越し、最後のデート、美樹の小林義昌との同棲と結婚と離婚、二人で転々とする日々?、高円寺、風呂でのノーブラ、高円寺から川口?、野方、野方での引っ越しの日に居合わせる、阿佐ヶ谷?、下高井戸、会社の倒産時期の明大前でのすれ違い、伊勢丹でのすれ違い、美樹の再婚、下高井戸、北習志野、米沢、新潟、新潟での転居、信仰、主の十字架、アル中、青山、・・・】

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