自分だけの思いつき、など。

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...... 2025年01月28日 の日記 ......
■ 2025/01/28 美樹60歳続き。   [ NO. 2025012802-1 ]
あり、地下に管理人室があり、松尾一家はそこに住んでいた。

彼女と会いたい時には、管理人室の電話にかけ、ベルを2回鳴らすのだった。しばらくすると美樹が地下室から出てくる。
セメダインは五反田の東口の坂の上だったが、西口のレンタルームにたびたび通い、主にそこでセックスしていた。

親に言われたのだろう、しばらくすると美樹は五反田の不二家でアルバイトを始めたが1週間ほどで辞め、歓楽街にあった「ブラックジャック」という、今でいうキャバクラで働き始めた。本人曰く、父親違いの姉も水商売をしているという。
店が始まる前、店がはねたあと、何回かデートをした。同伴出勤もしてくれといわれたかもしれないが、結局行ったことはなかった。

五反田にいるころにも別れ話はあった。今振り返ると、美樹が五反田にいたのは1984年3月から10月くらいまでだ。短かったのに濃密だった気がする。

何回目かの別れ話をして、3カ月くらい別れていたと思う。多分向こうからまた連絡があり、それまでのようなつきあいが再開されたのだろう。


しばらく連絡がないな、と思っていたらある日大学の赤電話に美樹からの電話があって取り次いでくれた。
どこにいるのか聞いても言わない。「都内某所」なんていう。そのうちようやっと話してくれて、明治通り沿いの原宿、千駄ヶ谷付近の公衆電話からだという。すぐに原付を飛ばして行った。
原宿の外れ、千駄ヶ谷小学校の裏のあたりは、原宿からも千駄ヶ谷からも歩いて10分以上かかる「陸の孤島」だった。しかし高級住宅地でもあった。
そんなところに、築20年以上、もしかしたら30年以上は経っているのでは、と思われるアパートの2階に美樹は引っ越していた。
六畳一間に台所、トイレ付き、半間の押し入れ。トイレは和式、部屋の鍵はタンスの鍵のような。

その頃、俺はクルマの免許を取りに教習所に通いだしていた。それまで原付免許しかなかった。中学、高校のころには近い将来クルマの免許を取るつもりだったのだが、それまで思い描いていたような大学生活ではなかったこともあり、20歳になっていたのに免許を取る気になれなかった。高校生のときには、大学に入ったらすぐに取りにいくつもりだったのに。

教習所は大崎にあった。美樹の住む原宿からは山手線ですぐなので、美樹の部屋に泊まった時には、朝起きてそのまま大崎に行くこともあった。

美樹は原宿に住みたかったのだろう。
美樹のアパートは、原宿駅の竹下口を出て竹下通りを歩き、明治通りを渡って細い道に入る。今では裏原宿と呼ばれているらしい。細い道を歩いて行くと、今はユナイテッドアローズの建物がある。その横をまた歩いて行くと、千駄ヶ谷小学校の交差点に出る。渡って、小学校の横を入り、今はコンビニになっている文房具店の先を右に入ると、美樹の住むアパートだった。

階段を上がって最初の部屋が美樹の部屋。隣にはおそらく原宿の美容院で働いている美容師が住んでいた。こちらは同棲していたようで、美樹の話しだとよく喘ぎ声が聞こえていたそうだ。
そんな美樹も、俺が部屋に行ったときには負けずに喘ぎ声を出していた。
羽根木のときには、泊まるどころか半同棲、時には1週間2週間と家には帰らずに美樹の部屋に入り浸っていた。しかし美樹も懲りたか疲れたのだろう。千駄ヶ谷では、泊めてくれることもあったが、終電までに帰ることも多かった。
美樹との性交は、もちろん夜もあったが、昼間に交わることもあった。
こちらから美樹には連絡できない。相変わらず電話はない。会いたくなると美樹から電話がかかってくる。といってもほぼ毎日のようにかかってくる。そのたびに、何をしていてもどこにいても、原付で美樹の部屋に駆けつける。
部屋に二人きり、どちらからともなく相手の身体に手を伸ばし、口づけを交わし、下着の上から乳房に触れると美樹の手は俺の手を下着の中に誘う。
「ばんざい!」というと美樹は両手をあげ、俺はセーターを脱がす。俺の趣味が移ったのか、ボタンダウンシャツのボタンを外す。

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■ 2025/1/28 もうすぐ松尾美樹の60歳の誕生日   [ NO. 2025012801-1 ]
毎年この時期になると、松尾美樹のことを思う。
1965年2月11日生まれ、大阪出身。

生きていれば今年還暦になるけど、2016年11月10日に天に召されていった。

交際していたのは、1982年5月5日から1985年5月16日のほぼ3年間。お互いに予備校通いを始めてまもない5月に、お互いにそんなつもりはなかったはずなのにつきあうことになり、翌春の大学受験では俺は変な大学に進むことになり、美樹は東大を目指していたはずなのに宅浪することになった。

大学1年と宅浪の二人は、そのままつきあいが続くかと思ったら、何故か美樹は俺の家の近くに引っ越してきた。

アルバイトを始めてちょっと会えなくなったら、「道でナンパされた男とつきあうから」と言われて別れ、と思ったらしばらく二股をかけられて再びつきあいだした。

ある日、井の頭線にのってどこかに出かけようとしたとき、美樹が東松原から乗ってきた。車内を歩いてきたけど、俺には気がつかなかったみたいだ。カレシなのに、と思って声をかけるとびっくりしたような顔をする。

話しかけて、笹塚のケンタッキーでなんか食べて帰ったが、今思うとあれば浮気相手と吉祥寺でデートだったのだろう。


今思えば大学生活についていけなかった俺は、美樹の住む羽根木のアパートに入り浸りになり、半同棲生活がいつのまにか始まった。美樹は受験生のはずなのに、勉強せず、二人で遊んでいた。または一日中家にいて、昼間から性行為に耽り、夜は近所の金髪の中年女性が働く小さな定食屋でご飯を食べる生活。

何故か、というか、ことわれなかったからか、学生自治会の執行委員なんてものをやるはめになり、成人式にも出なかった。

二人の生活のためと思ってガソリンスタンドでアルバイトを始めてみたが、しょっちゅう無断欠勤していた。何しろ美樹の部屋には電話がなかった。

美樹曰く「電話は贅沢品」。
寝坊しても連絡できず、いや、そもそも、朝8時からのガソリンスタンドのアルバイトでは起きられるはずがなかったのだ。
学芸大学というか、目黒通りの鷹番にあった、富士モータースという会社が運営していた出光のスタンドは今はなく、ワンルームマンションが建っている。

いつのことだったか覚えていないが、羽根木に住んでいたころ、「お見合いをするから」といわれて、五反田までついていったことがある。後ろをついていったはずなのに、ふと見失ってしまった。
その日の夕方か翌日かに、美樹に感想を聞いたはずだが、その場では結婚という結論は出なかったはず。ずいぶん若くて(当時美樹は18歳)お見合いするんだなぁとは思ったが、予備校のクラスメートの話しで17歳でお見合いの話しが持ち込まれた人のことを聞いていたから、そんなに違和感はなかった。


春になり、ある日美樹の部屋に行くと、引っ越すことを告げられる。相談してくれないんだ、教えてくれないんだ。

引っ越す日に美樹の部屋に行った。トラックに全て積み込まれ、美樹も乗って出ていった。原付で追いかけたが、すぐに見失い、どこに行ったのかわからなくなってしまった。


次の住まいは、すぐには教えてくれなかったな。1週間位してから電話があったと思う。
美樹の両親が、五反田にあった、セメダインという会社のビルの住み込みの管理人をしていて、次の住まいはそこだった。1984年3月のことだ。

親と一緒だったが、あまりいい生活ではなかったのかな。
1984年の2月、いくつかの大学を受験し、白百合女子大には合格したが慶応大学には落ち、美樹は大学入試をあきらめて慶応大学の通信教育課程に入った。アルファキュービックのスーツを着て入学式に出席した。

当時セメダインは東五反田の坂の上のビル一棟にあり、管理人室は地下にあった。どうやら、社員たちは管理人室の前を通って、通用口から帰るらしかった。



、何故か先輩に見込まれて

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