あり、地下に管理人室があり、松尾一家はそこに住んでいた。
彼女と会いたい時には、管理人室の電話にかけ、ベルを2回鳴らすのだった。しばらくすると美樹が地下室から出てくる。 セメダインは五反田の東口の坂の上だったが、西口のレンタルームにたびたび通い、主にそこでセックスしていた。
親に言われたのだろう、しばらくすると美樹は五反田の不二家でアルバイトを始めたが1週間ほどで辞め、歓楽街にあった「ブラックジャック」という、今でいうキャバクラで働き始めた。本人曰く、父親違いの姉も水商売をしているという。 店が始まる前、店がはねたあと、何回かデートをした。同伴出勤もしてくれといわれたかもしれないが、結局行ったことはなかった。
五反田にいるころにも別れ話はあった。今振り返ると、美樹が五反田にいたのは1984年3月から10月くらいまでだ。短かったのに濃密だった気がする。
何回目かの別れ話をして、3カ月くらい別れていたと思う。多分向こうからまた連絡があり、それまでのようなつきあいが再開されたのだろう。
しばらく連絡がないな、と思っていたらある日大学の赤電話に美樹からの電話があって取り次いでくれた。 どこにいるのか聞いても言わない。「都内某所」なんていう。そのうちようやっと話してくれて、明治通り沿いの原宿、千駄ヶ谷付近の公衆電話からだという。すぐに原付を飛ばして行った。 原宿の外れ、千駄ヶ谷小学校の裏のあたりは、原宿からも千駄ヶ谷からも歩いて10分以上かかる「陸の孤島」だった。しかし高級住宅地でもあった。 そんなところに、築20年以上、もしかしたら30年以上は経っているのでは、と思われるアパートの2階に美樹は引っ越していた。 六畳一間に台所、トイレ付き、半間の押し入れ。トイレは和式、部屋の鍵はタンスの鍵のような。
その頃、俺はクルマの免許を取りに教習所に通いだしていた。それまで原付免許しかなかった。中学、高校のころには近い将来クルマの免許を取るつもりだったのだが、それまで思い描いていたような大学生活ではなかったこともあり、20歳になっていたのに免許を取る気になれなかった。高校生のときには、大学に入ったらすぐに取りにいくつもりだったのに。
教習所は大崎にあった。美樹の住む原宿からは山手線ですぐなので、美樹の部屋に泊まった時には、朝起きてそのまま大崎に行くこともあった。
美樹は原宿に住みたかったのだろう。 美樹のアパートは、原宿駅の竹下口を出て竹下通りを歩き、明治通りを渡って細い道に入る。今では裏原宿と呼ばれているらしい。細い道を歩いて行くと、今はユナイテッドアローズの建物がある。その横をまた歩いて行くと、千駄ヶ谷小学校の交差点に出る。渡って、小学校の横を入り、今はコンビニになっている文房具店の先を右に入ると、美樹の住むアパートだった。
階段を上がって最初の部屋が美樹の部屋。隣にはおそらく原宿の美容院で働いている美容師が住んでいた。こちらは同棲していたようで、美樹の話しだとよく喘ぎ声が聞こえていたそうだ。 そんな美樹も、俺が部屋に行ったときには負けずに喘ぎ声を出していた。 羽根木のときには、泊まるどころか半同棲、時には1週間2週間と家には帰らずに美樹の部屋に入り浸っていた。しかし美樹も懲りたか疲れたのだろう。千駄ヶ谷では、泊めてくれることもあったが、終電までに帰ることも多かった。 美樹との性交は、もちろん夜もあったが、昼間に交わることもあった。 こちらから美樹には連絡できない。相変わらず電話はない。会いたくなると美樹から電話がかかってくる。といってもほぼ毎日のようにかかってくる。そのたびに、何をしていてもどこにいても、原付で美樹の部屋に駆けつける。 部屋に二人きり、どちらからともなく相手の身体に手を伸ばし、口づけを交わし、下着の上から乳房に触れると美樹の手は俺の手を下着の中に誘う。 「ばんざい!」というと美樹は両手をあげ、俺はセーターを脱がす。俺の趣味が移ったのか、ボタンダウンシャツのボタンを外す。 |
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