今日もまたいつものように松尾美樹のことを考える。
20歳の最初の結婚で小林美樹、1年足らずで離婚して松尾姓に戻り、30歳の二回目の結婚で石島美樹となった。 20年ほどの結婚生活と、おそらくはアルコール依存症や精神障害との闘病をへて、2016年11月10日、51歳で亡くなった。死因はわからない。最後に美樹に会ったのは、多分1993年、28歳前後のころ、新宿伊勢丹の「新宿の母」の占いの列に並んでいたのを、横目でちらっと見たのが最後だと思う。当然会話は交わしていない。 この頃、なぜか美樹とは明大前駅での乗り換えですれ違うように見かけることがあった。最初見かけたときには「人違いだろう」と思ったが、その後を追いかけていくと当時父親と住んでいた上北沢の公団住宅に入っていったので確信した。 それ以降も、1993年の夏〜冬にかけてだったと思うが、忘れたころに何回か遭遇した。 多分、向こうは俺だとは思っていないはず。 この頃の美樹は、とれかけたソバージュにリーボックのスニーカーをO脚のために外側がすり減ったようになりながら歩いていた。そういえばこの頃から 「ちょっとおかしいな」という感じはしていた。
いや、その伊勢丹や京王線ですれ違っていたころの美樹の話ではない。
今日ずっと考えているのは、千駄ヶ谷のボロアパート、六畳一間、キッチン、トイレ付き、トイレは和式の二階建ての二階に住んでいたころの話。 それまで住んでいた五反田のセメダイン本社のビル管理室から引っ越してきたのが1984年の10月ころのはず。 別れたのが1985年2月くらいだから,期間は4カ月と短いが、いま思えば濃密な4カ月だった。
一人暮らしだから時々は泊めてもらっていたが、以前のように毎日のように泊まることはしなくなっていた。彼女も自分の生活が振り回されるのがいやだったのだろう。
昼間や、学校終わりに行っては、二人きりの部屋でテレビ見たり、セックスしたりしていた。 そんなある日、彼女から「ハダカ撮って、ヌード撮って」と言い出した。
つきあい始めて1年くらいたった、1983年の3月から4月にかけて、彼女のマンションでセックスしたあと、ヌード写真を撮ったことがある。 最初の5枚くらいは胸と局部を手で隠した写真だが、彼女が気を抜いた瞬間に、上半身ハダカの写真を撮ったのだ。 当然彼女は驚き、唖然とし、「ハダカを撮られてしまった」というショックを受けていた感じだったが、その時にはあまり口には出さなかった。 後日、撮った写真を持っていきみせた瞬間、私の手から奪い取り隠してしまった。 その写真は、ネガごと彼女が持っていき、封印されていたはずだったのだが・・・・・・
1984年の11月か12月か、はたまた1月か、彼女の口から「ね、ヌード撮って」と言い出した。
この頃、彼女の写真を撮るためにカメラは弟のものを借りていたが、着衣ばっかりでヌードを撮る気はなかった。
きっと、ビビっていたんだろう。 彼女の口から「ヌード撮って」といわれても、近くのコンビニにフィルム買いに行くことさえせずにいた。
このころ撮ったのは、ちょっといいブラウスを着た着衣と、それを少しはだけたもの、そんなものだった。 実は、ブラジャーを外させ、ティシャツ一枚の上からトレーナーを方に引っかけた写真がある。しかし、これではノーブラの意味もTシャツ一枚だけの意味もない。
いまこの写真を見ると、彼女は不満そうな顔をしている。きっと、このTシャツをめくりあげて「着痩せする」とも「結構あるでしょ」とも言ったバストを露わにした写真を撮って欲しかったのだろう。
今にして、当時、彼女のヌード写真を撮ることを想像している。 上半身何も身につけていない彼女、淡いブルーの、すとラップのないブラジャーとパンツだけの彼女、下着1枚身につけず、素っ裸の彼女をベッドの上に座らせ、脚を大きく拡げさせ、股間に薄いティッシュ1枚だけを置いた彼女の姿態。。。。
「ヌード撮って」と甘えた声で言ってきたときに、遠慮せずに美樹の裸の写真を撮っておけばよかった。
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