(今日の色はdarkolivegreen) 来週の29日は宮田菜穂子の命日だった。1995年7月29日。
宮田のお父さんからハガキがきて知ったのだった。 その1,2週間前、宮田本人から電話があり「入院しました」と聞いた。かかってきたときには部屋にいたのだがウトウトしていてすぐには出られず、留守番電話に録音されるのを聞いていた。いま思えば、あれが最後の宮田からの電話で、録音されたのがこの世に残された唯一の宮田の肉声ということになる。
宮田とは二回だけセックスをした。 それまで何回か、美術展を見に行ったり、クルマで送迎して遊びに行ったりしていて、いわばプラトニックな関係でただの友達みたいなものだった。 だが、何回も「デート」するうち、こんだけ何回も会っているのなら、誘ったら応じてくれるのではないか、と思うようになった。
それにはまた前段があって。 学生時代には、少々酔っぱらって宮田のアパートに夜中に押しかけたことがあった。彼女は寝ていたのに起きてきて部屋に入れてくれ、泊めてくれた。翌朝起こされて、何も食わずに、多分顔も洗わず歯も磨かずで部屋から一緒に出されてアルバイト先に出勤した記憶がある。
その前に、夕方のサークルの部室に宮田がいて、雑談しているとふと「私今日ノーブラなの」と言ってきた。そのときは服の上から眺めただけだったが、授業の後、誰もいなくなったサークルの部屋で服の上から胸を触っても抵抗しない。Tシャツ一枚だったので、めくりあげようとすると黙ってされるがままになっている。 部室のベンチに寝かせて予想以上に大きな胸をなめまわし、触りつづけても何も言わない。 10分も触っていただろうか、ふいに宮田は起き上がり、服を着て帰ってしまった。
そんなことがあったので、セックスに誘っても断られないだろうという感触があった。
その通り、たしか環七かどこかの駐車場の大きなホテルに行き、車を止めて降りるようにせかしてもあまり抵抗せずに部屋に入ることができた。でもこの時たしか0時過ぎ。休憩でホテルに入って、脱がせる。
宮田は精神的にもろい面があり、真っ暗にすることを望んだ。服を脱がせ、ブラジャーを外し、寝ている宮田のパンツを脱がせようと手をかける。腰を浮かしてくれたので、拒まれてはいないとほっとする。
でもこの時は、初めてなので緊張していた。 ずーっと胸をなでまわし、ワギナを、いや、クリトリスをなめ回す。宮田は口を押さえ、必死に声を我慢していた。 避妊具をつける間をもたせると挿入を拒まれそうな気がしたので、何もつけずに挿入しようとすると、ちょっと入ったところで宮田は抵抗して避妊具をつけるように言う。 避妊具をつけようと自分のペニスに触るだけで射精してしまいそうだった。 そして挿入するとすぐに果ててしまった。たしか宮田は「え、もう?」と言ったのだが、それ以上は追求せず、帰った。宮田の住んでいた葛飾区鎌倉の都営住宅まで戻り、宮田を降ろすと、彼女は家ではなく自動販売機に一直線、ジュースを買って一気に飲み干す。緊張したのか、喉が渇いていたんだな。実は俺もこの時喉が渇いていたことを自覚して、一緒にジュースを買って飲んだ。
次のセックスは、渋谷のbunkamuraの展覧会に行った帰り。展覧会の後に近所で軽く食事をしたらもう夕方遅い。当然帰るものだと思って渋谷駅まで送り、別れようとしたらどうも向こうは帰るのを渋る。 「じゃあもうちょっと散歩しようか」と散歩しつつ南平台のデニーズに行く。そこから近くにあったホテルに誘ったらいやがらない。
この時は少しは落ち着いてできた。 ただ、部屋の中を真っ暗にしないと落ち着かないのは相変わらずで、照明を消すだけではなく、冷蔵庫の照明にもタオルをかけて暗くすることを求めた。
向こうも落ち着いて相手してくれたようだったが、この時には「実は子宮後屈でセックスが痛くてできない」と告白された。 痛いのに無理やり挿入するほど鬼畜ではないので早々にあきらめ、約10年前の学生時代の時と大きさは変わらず、だけどあの時よりも柔らかくなった胸をもみしだく。そう、学生時代はたしか宮田は21歳くらいで、大きいけどまだ若干固かったのだ。まだ成長途中だったのだろうか。同じ乳房を10年の間を経て触ることができるなんて。10年たつとこんな風にやわらしくなるんだなと思った覚えがある。
卒論が書けないために大学を中退したり、在学中にも入院したり、自分の顔が嫌いで口を隠していたので顔が曲がったり、と、精神的にひ弱というか問題抱えていたが、貴重な、得難い友達でもあった。あのまま自死せずにこの歳まで生きていてくれたらよかったのに、と60歳を過ぎたいま、切実に思う。
|
|